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変臭長(加齢臭?)番外編


『誤判にいたる病』
自由心証の病理について

2011.10.19

『誤判にいたる病』青木英五郎著
(一粒社版)
 
 今から40数年前、最高裁で殺人事件の被告4人が無罪になった。冤罪事件として関心を集めた「八海(やかい)事件」。その弁護活動にもたずさわった弁護士の青木英五郎氏が、『誤判にいたる病』と題した本を書いている。

 青木氏は、自らの裁判官時代の経験にも触れながら、誤判の可能性についてこう述べている。

 「人間である以上多少の偏見は裁判官についてまわる。だが、それを承知し、自らの心の隅々にまで照明をあてて、裁判に支障となる心の曇りを意識したうえで、それを取り除くことができなければ誤判の可能性も生ずる」。

 青木氏によれば、偏見とは「十分な証拠なしに他人を悪く考えること」もしくは「実際の経験より以前に、或いは実際の経験に基づかないで、ある人とか事物に対して持つ好きとか嫌いとかいう感情」を指す。

 また、偏見には「自分自身の若干の記憶を選択的に分類して、それを風聞と混ぜ合わせ過度の一般化を行う」機能があるという。
 
 裁判官が書く判決書の礎となるのは「自由心証」とされる。その自由心証は、論理法則に従ってなさねばならないと青木氏は述べている。なぜなら、論理法則に従わずに形成された「自由心証」は裁判への批判を排除する思想につながっていくからだ。

 「ひとつの可能性ばかりに拘泥し、その他の可能性を排除する作業を怠る」ようなやり方を心証形成の柱にしてはならないとの警鐘が聞える。

 青木氏は、さらに強調する。「証拠に基づく推理」とは「証拠のそなえている支配力に従順に服すること」であり、逆に「裁判官自らの思うままに証拠を駆使」すれば、許される推理の範囲を踏み越えて「想像の世界」に落ち込んでしまう ――と。

 『誤判にいたる病』には、“証拠による”事実認定から“想像による”事実認定へと転落していく誤判生成のメカニズムが描かれている。「人を裁くことは裁判官自らも裁かれること」(三宅正太郎著『裁判の書』)の引用が忘れられない。

 来年2月まで小沢一郎氏の裁判は続く。<N>

 



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