太平洋戦争末期の昭和19年、文部省に出入りするマスコミを中心に「文政研究会同人」が結成された。戦況が厳しくなる中、この「文政研究会同人」が、当時の文部省と一緒になって推進したのは何だったのか。
それは、児童生徒・学生を軍需工場や戦地へと動員するため、教育方針を改革することだった。そしてこの改革は『文教維新』と命名された。
「文政研究会同人」は当時、『文教維新の綱領』と題した本を出版している。その自序では、次のように述べられている。
「支那事変から大東亜戦争へとわが日本の現に辿りつつある世界新秩序戦完勝への偉大なる歩みは政治・経済・思想文化・国民生活等わが国家体制の全分野に互る根本的な革新を中核として営まれつつあるが、これを維新と言い、敵前敢えてその断行を見る所以のものは、神国日本の理想顕現のおおみいくさたる征戦の本義に照らし、今この維新なくして完勝の途なく、悠久日本の伸張期し難しとするが故である。
しかして文政報道のことに携わるわれら文政研究会同人が、ここにひそかに自負することは、教育が国本培養の根基であり常に国歩に先行すべき使命を持つ性質上当然とはいえ如何なる部面にも優して教育における維新が、今や広汎な規模と逞しい速度で著著具現されつつある一事である。
― 中略―
政府は昭和18年10月苛烈な戦局に対応すべき国民動員の重要な一環として『教育に関する戦時非常措置方策』を決定、教育の全面的配置を断行した」。
当時の内閣が、いとも簡単に戦争の道具として、強制的に児童・生徒・学生を軍需工場や戦地に駆り立てた瞬間だった。
東大戦没学生の手記から
当時、東京帝国大学(現東京大学)から学徒動員で特攻人間魚雷「回天」に乗り戦死したある学生が、出陣間際、母親にあてた手紙の中で次のように心境を語っている。
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写真は、人を乗せたまま敵艦に体当たりした
人間魚雷「回天」
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「― 前略― 軍隊に入って唯少し変わったといえば、昔爺さんのようにつまらぬ日常のことに小うるさかった所、あれが非常に強くなったこと、言い換えれば妙なところに小心になったことです。
これは軍人というものに懐いていた多少の期待をすっかり裏切られ、職業的軍人に愛想をつかしてからのことです。
極度に形式的な彼等がそれを以って我等に臨み我等を律するのは所謂海軍の伝統、海軍常識なのです。
その実それは島国根性、尻の穴の小さい連中が営々として作り上げた形式的な固陋(ころう)な因襲にすぎないのですが。
― 中略 ―
私は生死を超越したといいながらつい先ごろ迄死生観というものが、頭の中から離れたことはありませんでした」(東大戦没学生の手記より)。
内閣のもとで、為政者にすべての権力が集中したことによって、悲劇が生み出されていった。こうした事実を省みて、戦後の地方自治法では、教育委員会・公安委員会・選挙管理委員会の権限というものを分散させたのではないのだろうか。
教育現場が「放任に近い状態」?
話はかわるが9月27日付大阪日日新聞紙上で、慶応大学教授の小林節氏が、「教育委員会制度が日本にうまく定着せず、教育現場が放任に近い状態にあるのではないかという不安は、多くの人々が共有するものではないだろうか。そのような民意を背景に今回の条例案(注:大阪維新の会が提案した大阪府教育基本条例案)
が出てきたのだと思われる」と語っている。
氏は「教育現場が放任に近い状態」というが、一体何を以って同感されているのだろうか。
わが国の初等中等教育は、OECDの中でもカナダや韓国などに並んで学力の高い状況にある。初等中等教育を通して伸ばされてきた学力が、大学段階で逆にその伸長を阻害されているケースもある。
また、「民意」とは具体的に一体どこを指しているのか。維新の会が提案した教育基本条例案は、別にパブリックコメントを経てから出された条例案でもない。
さらに「教育委員会制度は日本に定着していない」というが、何を以ってそういえるのか。戦後に教育委員会制度ができたからこそ、戦前のような極端な軍国主義教育や格差社会から、不完全ながらも民主国家として万人に対する教育の機会均等が実現されたといえるのではないか。
氏の意見は市場経済主義を教育に導入し、競争による教育効果の実現(ありえないが)を図ろうとする意図的なものとしか見えない。そもそも大学教育の現場と同じ感覚で、初等中等教育を語ること自体に違和感を感じる。<N>
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